plendefrruesjp

歴史

 

元々、ドブジン地方はヴィスワ川、ドルヴェンツァ川とスクルヴァ川の間に位置しています。

この地域には、既に6世紀からスラブ系の祖先が住んでいました。

当時この場所には、適切な気候、肥沃な土、動物のあふれる森と、魚と水の豊富な川や湖がありました。


湖には数多くの島や半島があり、自然の保護条件が、集落ができやすい環境につながりました。

ドブジン地区は11世紀からプオツク市のマゾビア系ピアスト王朝のものでした。

その頃ドブジンは城主の居城がある城塞都市でした。

1213世紀、キリスト教を受け入れないプルーセン族がマゾビア侵略を繰り返すため、君主のコンラットは、シトー会によるヴィ

 

 

エルコポルスカのウェクノのキリスト教化を進める為に、プルーセンのキリスト騎士団の援助を受けました。

 

1228年にドブジンに集落し、その後ドブジン修道士またはドブジニェツと名づけられた修道士達は、キリスト教化活動には至りませんでした。

同時に君主が、ドイツ人の聖母マリア騎士修道会を呼び、同じくドイツ人であったドブジン修道士と結合しました。

それはポーランドにとって大きな問題となりました。聖母マリア騎士修道会が長い間、ドブジン地方のコンラト1世から授かったドブジン修道士の土地の権利を訴えていたからです。

ポーランドの様々な土地に対して200年の聖母マリア騎士修道会との争いの間(14世紀と15世紀、1525年の臣従の礼まで)、ドブジン地方は騎士修道会の外郭のようなものでした。

300年の間、ドブジン地方は公式にイノヴロツワフ県の一部でした。

 

1352年にドブジン最後の君主の死後、ドブジン城主がこの地域を代表して国の役人となりま

 

した。

略式領主の役割を果たし、ドブジン地方は行政的に県に相当する権限を与えられました。

1466年のトルン平和条約以降、16世紀はドブジン地方にとって平和と安定の時期になりました。

 

中世にできた町(ドブジン1239年前、グジノ1327年、リピン1345年、ボブロブニキ1403年、スケンペ1445年)は職人・手工業製品の交流の場となり、騎士・修道院の財産が栄えました。

17世紀60年代まではスウェーデン軍の侵略、城、町、村の火災、致命的な伝染病に見舞われた時期です。

ザクセン朝無効な政権後(1697年~1763年)、教育委員会、53日憲法を採択したエスコラピオス修道会と騎士学校の卒業生や愛国者のおかげで、ポーランドは力を回復しました。

行政の改良や町の整備をしたり、軍隊を集めたり、(当時にしては)モダンな産業を発展させました。

ポーランドの変化に気付いた敵の隣国が、無秩序で利己主義な貴族やマグナートの援助を受け、ポーランド国を地図から消しました。

ウィーン会議後(1815年)、ドブジン地方が1916年までロシアの占領下に置かれました。

ドブジンの人は全ての反乱に参加し、1920年のボルシェビキ軍侵略時、たった1年前に得られた独立を守る側に立ちました。

2次世界大戦(1939年~1945年)ドイツがドブジン地方をライヒに編入し、ポーランド人の権利を奪い追放しました。

死の危険があったにもかからわず、ドブジン地方では愛国者達が国内軍などの抵抗活動を行いました。

世界的に有名なポーランド人ふたりがドブジン地方から生まれています。

一人は、レフ・ワレサ(1943923日リプノ郡のポポヴォ村生まれ)「連帯」労働組合の指導者、政治家、ポーランド国の大統領(1990年~1995年)、1983年のノーベル平和賞受賞者。

もう1人はレシェク・バルツェロヴィチ(1947119日リプノ生まれ)、優秀な経済学者、政治家。タデウシュ・マゾヴィエツキ首相政府(1989年から1990年)の財務相として、歴史的に前例のない社会主義経済から資本主義経済への経済移行プログラムを実施。

8カ国11大学の名誉学位を授与。